09/06,
2026
【46】突然、数時間の記憶がなくなったら
― 一過性全健忘のお話 ―
高校生の頃、柔道部の合宿で、不思議な経験をしました。午後の練習後から夜の自習まで、数時間の記憶が、すっぽり抜けてしまったのです。
その間、私は仲間といつもどおりお風呂に入り、晩ご飯を食べ、食堂に集まって自習をしていたようです。ところが、勉強の途中でふと、「あれ、俺、ここで何をやっていたんだっけ」と思ったのです。
風呂に入ったことも、晩ご飯を食べたことも思い出せません。その間も「さっき俺、何していた?」「どうしてここにいるんだろう」と仲間に何度も同じことを尋ね、笑われていたようです。周囲には普通に行動しているように見えても、私にはその間の出来事の記憶がありませんでした。
今振り返ると、練習中の頭部への衝撃による脳震盪に伴った「外傷後の健忘」だったようです。
これとは別に、頭を打っていないのに突然、記憶が残らなくなる病気の一つが、今回お話しする「一過性全健忘(TGA)」です。
会話はできるのに、さっきのことが覚えられない
TGAは主に中高年の方にみられます。自分が誰か、家族が誰かは分かり、会話もできます。それなのに、今聞いた説明や直前の出来事を覚えておけなくなります。
「どうして病院にいるの?」「今日は何日?」。同じ質問を繰り返すのは、説明を聞いていないからではなく、その内容を記憶に残せないためです。ご家族も驚かれると思いますが、どうか責めずに、落ち着いて繰り返し伝えてあげてください。
多くは数時間で改善し、通常は24時間以内に新しい出来事を覚えられるようになります。ただし、症状があった間の記憶は、回復後も抜けたまま残ることがあります。その数時間を思い出せないからといって、記憶する力が戻っていないわけではありません。
海馬との関わりと、まだ分かっていないこと
TGAは、新しい出来事を記憶に残す海馬の働きが、一時的に障害される病気です。血流の変化なども原因として研究されていますが、まだはっきりとは分かっていません。一般的な脳梗塞と同じ病気とは言い切れず、血栓を防ぐ薬で再発を予防できることも確認されていません。
MRIで海馬にごく小さな変化が見つかることもありますが、発症直後には分からず、翌日以降に見えてくる場合もあります。したがって、画像だけでなく、症状の経過やご家族のお話も合わせて判断します。
突然の記憶障害には、脳梗塞やてんかんなど、別の病気が隠れている場合もあります。当院では、脳梗塞を調べる「拡散強調画像」を含むMRI検査などで、脳の状態を詳しく確認します。
回復後の見通しと、お薬について
適切な診察・検査でTGAと判断されれば、多くの方は普段の生活に戻れます。TGAと診断されたことが、そのまま認知症を意味するわけではありません。
ただ、再発しないとは言い切れません。1,044人を調べた研究では、約14%に再発がありました。これは経過を追う中で再発した方の割合で、毎年14%という意味でも、脳梗塞が起きる確率でもありません。
血栓をできにくくする抗血小板薬には、脳や胃腸からの出血を増やすおそれがあります。当院では、TGAの再発予防だけを目的に、こうした薬を処方することはしていません。
薬を使わないのは、放置するという意味ではなく、期待できる効果と副作用の両方を考えた判断です。
「そのうち治る」と待たずに
突然、同じ質問を繰り返す、直前のことが覚えられないときは、速やかに医療機関を受診してください。手足の麻痺や言葉の出にくさなどがあれば、救急車を呼んでください。以前TGAと診断されていても、再び症状が起きたら、改めて診察が必要です。
私自身の経験からも、記憶が抜ける戸惑いはよく分かります。「大丈夫」と決めつけず、必要な検査を受け、何が起きたのかを一緒に確かめることが、安心への第一歩です。










